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2011年7月24日 (日)

栗本薫を偲びつつ(3)

伊集院大介シリーズ第13弾「陽気な幽霊~伊集院大介の観光案内」は、
正直、藤島樹登場作のあとだけに、イマイチであった^^;

いや、それでも、あの駄作「真夜中のユニコーン」に比べれば、たいしたことはないっ
まだまだ読める域である^^;

とはいうものの、文庫版あとがきで作者当人がいってるように
本来、書こうと思って書いたものではなく、ごくごくライトだ。
とはいえ、チープというほどひどくはないかもしれないが、
う~ん。やはり物足りない感は否めない。

本作の目玉は、なんといっても、伊庭緑郎。
いや~、この人も、久しぶりの登場だ。
最後に出たのはいつだったのだろうか?ゾディアックの頃?それ以後の短編集には出てきただろうか?とにかく、ものすごく久しぶりなのは事実で、さらに付け加えれば、
現在の後期伊集院シリーズにおいては、ものすごく浮いている・・・

なにか物足りなさはあるにしても、ミステリツアーについて終始批判で、事件というものを軽々しく扱う気になれないという大介の、探偵としての矜持というか、一本気さが、文字通り作品を支えているので、それなりに認める気になるのである。

しかし、本作に登場する、霊感デブ青年、あの描き方に読みながら少々ギョっとさせられた。霊能力者というのが栗本作品に登場したことがあったろうか・・・ファンタジーの《グイン》シリーズ以外で、あまり思い出せないのだけど(占い師は現代モノにも登場したような気がするが)、あらゆるジャンルをモノするといわれたデヴューまもない頃でも、いわゆる心霊モノは栗本作品にはなかったような気がする。栗本ホラーは読んだことがないのだけど、そちらでは心霊モノというものがあるのだろうか(むしろ、ディスコミニケーション系の壊れた人系の恐怖という予想をしているのだけど)。とにかく、あのデブ霊感青年、もしかして、栗本御大の霊能力者(あるいはソッチ系のひと)についての印象・評価だったりして。

さて、続くシリーズ第14作「女郎蜘蛛~伊集院大介と幻の友禅」。
これについては、私は大満足である。

導入部からして、ひさびさに、グイグイとのめり込んだ栗本作品である!

正直、《謎の女》の描写に終始して、事件そのものは、あれ?という気がしないでもないのだけど^^;
いやいや、この《謎の女》がいい!
いまどき、こんな女いないよ、とか、こんなの流行らないよ、とか、そういう向きもあろう!

確かにそのとおりだ!(爆)

だが、この日本という国には、伝統とかいう美称のもとに、包み隠されてる闇があるのは事実だ。その闇が、いまだに、様々なジャンルの描き手の創作意欲を刺激し、噴出するものだ。

私は、今回の「女郎蜘蛛」では、栗本の趣味、というか嗜好が、実にいい塩梅に燃え上がったと感じている。
かつて、彼女は、おのが趣味嗜好の命ずるがままに、作品をつづり、それがもとで転落した・・・あの迷作「魔都」と、その後の栗本を私はそう見ている。あれは、「魔都」という話は、あまりに趣味に走りすぎた。

「魔都」が、せめてこの「女郎蜘蛛」ほどに、抑制が利いて描かれていたのなら・・・栗本薫の作家生涯は、かなり違ったものになっていたに違いない。

まぁ、そんなヨタはさておき、この話、私は大いに楽しめた。そして、残念である。友納比紗子は、ライトな作品が続いた後期伊集院シリーズに登場した、ひさびさの悪のキャラクターであった。怪盗シリウス以後、なかなか大介の好敵手ともいうキャラは登場しなかった。それも、仕方のないなりゆきだったかもしれない。世はすでに、ホームズとモリアーティなどという対局の望めるものではなかったし、そもそも古きよき名探偵すら成立が難しいほどだ。もちろん、そんな現代でも、現代ならではのホームズ、現代ならではのモリアーティを創出せんと努力する作家たちはいるし、実際、感動させられる傑作も出ている。だが、おのが信条、おのが趣味嗜好を至高とする栗本御大は、そのような努力はなさらない。だが

この比紗子という女は・・・現代性と、御大の趣味嗜好とが、見事につりあい、成立している。

実を言えば、わたしは「怪盗シリウス」という、その名が気に入らなかった。なんか、シリウスってもうね~、恥ずかしくってね~w、コナン君の世界ならともかくさ。それと、悪をなすために犯罪をなす、というのも。そういうのも、なんか、リアルじゃなくってさ~。

まぁ、一つだけ、やれやれ^^;という点を上げさせてもらうと、いくら美しいからって、こんな女では、政治家の妻は務まらないだろう^^;。まぁ、政界を引退して、いまは政財界ににらみを利かすフィクサー、ぐらいにしておけば、まだよかったかもしれないが^^;

この作品のなかで、大介は彼女の犯罪を見事解き明かしておきながら、しかし、彼女をお縄にすることができなかった。
となると・・・ことによると、比紗子との再戦、再々戦がありえたかもしれないのだ。

そういえば、彼女が、なぜ片足を不自由にしているのか、そのあたりの事情は本作では明らかにされなかった。自分で書いてて、忘れてしまっただけかもしれないし、あるいは、後々の続編ででも書くつもりだったのかもしれない・・・

とにかく、この女、異形である。片足は不自由で、年齢不詳、着物を着て佇めば、どんな女がいても翳んでしまうという美女だが、その肉の内側には、どんな腐肉よりもおぞましいものがつまっている・・・

こんな存在は、物語の中にしか成立しようがない。

惜しいことだ。ことによると、彼女は、伊集院大介にとっての黒蜥蜴だったのかもしれない。そして、後期伊集院の白眉を飾るものとして、かつての天狼星のように、彼女との戦いの物語が、続いたかもしれないのに。それは、もう、望むべくもない。

2011年7月23日 (土)

栗本薫を偲びつつ(2)

伊集院大介シリーズ第12「聖者の行進~伊集院大介のクリスマス」を読了する。

いや~、予想はしていたことだが、やっぱ藤島樹さんはいいわ!
後期伊集院シリーズ登場キャラのなかで、彼女はピカイチだ!というか
私はほんとに、この六本木の宵闇に棲息するビアンの女性が好きらしい。
ぐじゃぐじゃいう後期栗本キャラのなかで、唯一、彼女の語りは長広舌とは思わない。
ほんとに彼女の語り口は切れ味がよい。
かつまた、人生の半ばを過ぎた者、それも世間ではあまり認められない生き様を貫いてきた者の諦念と覚悟があいまって、切ない。
このビアンの姐御とも、もう会えないかと思うと、残念でならない。

そもそも、私と藤島樹の出会いは伊集院シリーズの「水曜日のジゴロ」で、
その時すでに彼女は、「世間ではあまり認められない生き様を貫いて、人生の半ばを過ぎた者」として描かれていた。それ以前の作品での彼女を知らないのだが、もしかして、しばしば彼女の口にのぼるユラなる女性との一件で、伊集院大介との馴れ初めのお話があるのかもしれないが、残念ながら、それは知らない。
いずれにしても、その作品で私は久方ぶりに栗本作品を堪能した。ある時期から壊れた蛇口のように文章ダダ漏れ状態となった御大に辟易し、もう読むのをやめようかと思っていたほどだったのに、この藤島樹の登場によって私は思い直したのだ。
もう、けっして若くない時期に来た女、それでも自分で自分にルールを課し、おのれのスタンスを崩すまいと考えている女であれば、彼女の述懐、そして、ビアンとしておのれのありようを決したはずなのに、ある魅惑の青年に溺れかけていく彼女の逡巡と惑乱には共感できるのではないかと、今も思っている。というわけで「水曜日のジゴロ」個人的におススメなのであるが・・・、

話がそれたw

さて、その藤島樹登場の本作であるが、

後期伊集院作品は、事件がはじまって、えらい紙数がつきないと大介が登場しないことが多々あるが、この作品もそうだ。しかし、ほかのシリーズ作品とちがって、藤島樹登場の場合、このビアンの姐御は、実に個性的で、はっきりいえばキャラがたっていて、フランス文学よろしく、彼女の一人語りで充分お話になってしまい、しかも、それが他の栗本キャラ(特に『グイン』シリーズ)と違って、読んでいて気持ちがいいので、大介がいなくてもいいという気分になってくる。
いや、実に、彼女の存在自体、彼女の半生そのものが、おそらく「アンジェリク」ばりの波乱万丈な物語のはずだ。その時々、彼女が語りのなかで披瀝するその過去のエピソードが実にコワクに満ちている。

で、今回の「聖者の行進」、まさに、その彼女の過去に直結するからたまらない。

かつて、樹がつとめていたゲイクラブ《ママ・ジョーズ》、そこのママが突然、樹の店に訪れることから物語が始まる。
しかし、このクラブ《ママ・ジョーズ》は、一世を風靡した伝説的な店で、さらに、この「ジョーママ」その人も、かなりの伝説的おカマであった。

樹の回想で綴られる、在りし日の《ママ・ジョーズ》の姿は、まるで日本に出現した「ラ・カージュ・オ・フォール」。男装の麗人と、女装の麗人(あるいは怪人)たちが繰り広げた饗宴はさそがし見事なものだったのだろう。

だが、それ以上に見事だと思われるのが、伝説的おカマ「ジョーママ」である。
いや、だが、しかし・・・見事といって手放しで賞賛したものか、という気分にもなる。
というのもだ、文中のジョー・ママの描写がこうなのだ。
「ジョーママはそれこそ六尺ゆたかもいいところ、180はゆうにこえる背丈と、150kgではきかないかもしれない、相撲取りなみの体格を誇る、かつては青山六本木で一番有名なおカマの一人だった。」
「それほどジョーママは目を引く――その巨体だけでも目を引くのに(略)、その巨体によくまあ入るドレスがあったものだ、というような巨大なラメだのなんだの入ったドレスをまとい(略)、ごてごてに厚塗りの化粧をし(略)、誰もが一番簡単に想像する《おカマ》のパロディとして悪夢のなかから出てきたみたいな顔になっている」
これを読んで、誰かを連想しやしないだろうか。別に、栗本薫が装飾過剰な文章で描かなくても、「巨体で、ドレス姿のおカマ」というだけで、いま、誰しもが、ある人を思い出しやしないだろうか。そう、マツコ・デラックスである。(まかり間違っても、美輪様ではない)

かつては、けっこうな酒豪として、夜の街に繰り出していたという栗本御大。本作のあとがきによると、一時期はゲイバーばかり通っていたこともあるらしい。ということは、どこかで、まだこれほど世間に顔が知れる前の、夜の街で「知る人ぞ知る」の状態であった頃のマツコと出会っていたのかもしれないが、はたして、この「ジョーママ」のモデルが、マツコ・デラックスであるかは不明である。

もう一人、作中には、ミックという人物が登場する。樹同様の、男装の麗人であり、生来の性別は女性らしいが、女をくらう《男》である。髪形はオールバックで、キツネ目で、という描写からすると、どうも、こちらも、マツコ同様、現在テレビにひっぱりだこの、ある人物を思い出させる。今年の夏、24時間マラソンを走るという大物アナウンサーの甥とかいう、あのひとを・・・。

果たして、「ジョーママ」と「ミック」の二人が、私の思ってるとおり、いま話題でお茶の間おなじみのあの二人なのかどうは、最前もいったとおり不明だ。栗本御大が存命であるのなら、いつか、どこかで語られることもあったかもしれない。
マツコ・デラックスとミッツ・マングローブが、メディアに登場したのはいつの頃だったろうか。私がマツコ・デラックスを始めて知ったのは「TVブロス」だったけれど(マツコそのものをとりあげたのではなく、その頃の新番組をマツコが予想する、というか「新番組を斬る!」という風情の特集)、さて、あれは何年前だったろうか・・・。
この作品が最初に世にでたのは2004年、文庫版は2007年。作中で栗本御大は「ジョーママ」のことを、「一時期はテレビなどにも出て、世間にもてはやされたこともあった」というように描いている。御大が世をさったのは2009年であったか。御大、この二人、まだまだテレビに出続けてますよ・・・てか、おなじみさんになりましたよ。

さて、こうした奇人たちの晩餐のような宴は、現在進行形で描かれるより、今回のような当時を知る者の回想というスタイルのが望ましいように思われる。思い出は、不思議なことに、いつも実態より、いいものに感じられるものだ。そして、もう戻らない。だからより一層切ない。その風情が、この話にピッタリなのだ。藤島樹の無軌道な青春(自分の性分を悟って、それに忠実に生きていこうと覚悟を決めてからの青春)、その時代に寄り集った人々、その青春の舞台となった現場《ママ・ジョーズ》――結局は、世に容れられないものだとしても、だからこそ、いっそう燃え上がる奇人たちの饗宴・・・だが、それは、遠く過ぎ去った過去であり、いまはもう、ひとりタバコをくゆらすかワイングラスでも片手にひっそりと佇む藤島樹の回想の中にか存在しないのである。

それにしても、この藤島樹というキャラクターは、栗本薫にとって、どういう存在だったのだろうか。

デビュー当時、森カオルというキャラクターがあった。伊集院大介シリーズにとっては、途中から、なんだか消えてしまったようなキャラだが、そもそもは「やさしい密室」で伊集院大介とともに登場し、彼の伝記作家になろうと決め、のちにきちんと女流作家となったキャラだ。いってみれば、ホームズに対するワトスンである。彼女の登場する話はまだある。大介シリーズの短編集にちらほら、なにより「鬼面の研究」は森カオルが好奇心を発揮して、猫よろしくあわやwということになる話だ。
が、彼女は途中から消えてしまい、ワトスン役としてはアトム君が登場し、後期伊集院シリーズではつねに傍らにあるのは周知の事実。だが・・・それほど存在感があるように思えないのである。むしろ、竜崎晶が、役者としてならしながら、伊集院の相方というほうが面白かったのではないかと思うのだが・・・、晶のような華がアトム君にないというか^^;

かといって、藤島樹に大介のワトスンがつとまるとも思ってない。思ってないが、彼女の大介であろうと、ズバズバものをいう姿勢、なにより、物語において語り部役がつとまるということが、シリーズ初期の「やさしい密室」や「鬼面の研究」における森カオルと妙に通じるように思うのだ。あの頃のカオルは恐れ知らずだったものだ・・・また大介にしても、まだまだ世間的にデヴューしたばかりで、名探偵、なんて貫禄もなにもなかったものだけど・・・。

どのような内面的動きが、栗本薫に、樹という女性を生み出させることになったのだろう。若き日の、それこそ20代はじめのころの、自分を仮託できるのが、森カオルだったのなら、人生もある程度をすぎた年頃のおのれを仮託できるのが、樹だったのだろうか。だとすると面白い。かつて夜の街で、一世を風靡した伝説的名店で、女殺しと異名をとった名ホスト・・・今では、その片隅に、ひっそりと自分の城をかまえる中年のビアンだが、やはり往年の凄みはきえていない・・・。

なんとなくだ、なんとなく、この夜の街を、文壇というか小説家・文筆家の業界に、ゲイクラブを「やおい」世界に、というふうに置き換えてみたくなる。すると、藤島樹という人物は、栗本薫そのひとだ、というように思えてならないのだ。

本作のラストで、聖者の行進(題名のモトとなった名曲のほう)にのって、樹の胸のうちに、過去の知人たちが去来するくだりには、私は胸が熱くなった。「ネフェルティティの微笑」のラストシーンと並ぶ名場面だと思う。というより、ここで、こうした語りができるのに、どーしてアチラではアア・・・まぁいいかw

2011年7月 9日 (土)

映画「列車に乗った男」

実際に見た作品についても「観ないでモノを云う」カテゴリというのもなんなんだけど、まぁ、最後、観ない作品についてもモノをいってるのでいいか、ということで。

KSBで、パトリス・ルコント監督の「列車に乗った男」を観る。

最近のこの深夜映画枠は、いいのをやってくれる。
2000年に入ってからの、これ観たかったのよねw的作品が毎週のようにかかるのだから堪らない。

この作品については、実は、ちょっとしたことから興味を惹かれて、丁度観たいと思っていたところだったのだ。ナイスタイミングとはまさにこのこと。

さて、実際に観て、感想だが

実にいい。

なるほど、ルコント監督、さすがとしかいいようがない。

これは、心に残る話だ。

四の五の、余計な御託はいわない。いいものはいい。

変な話だけど、アニメ「カウボーイ・ビバップ」の中に、こんなエピソードがあってもおかしくないなあと思ってしまった^^; というか、「ビバップ」のエピソードのなかには、似たテイストのものが実際にある。

ところで、これを観たいと思ったちょっとしたコトというのは、
この映画がアメリカでリメイクされ、リメイク版でジョニー・アリディがやっていた役を、U2のドラマー、ラリー・マレン・Jrが演じるというのを知ったからなのだ。

正直、このフランス映画のよきエッセンスと、フィルム・ノワールの結合のような、良作を、リメイクだなんて、野暮としか言いようがないと思ったのが、オリジナルを観た直後、なるほど、この男をラリーが演じたら、それはそれは、絵になることだろうな、と思ったのも事実だった。
特に、ラストシーン、男が●●に●●シーン、全世界に数億の女性ファンがいるというラリー・マレン・Jrのことだから、その数億の女性が、双の瞳から涙をちょちょぎらせることであろう!(すみません、数億は言い過ぎかもしれません、でも、U2で一番女性ファンが多いのは、ラリーさんのはずです)

劇中、ロシュフォールに「私は刺繍以外、たいていの良家の子女ができることならできる」といわしめてるルコント監督であるが、この作品だけでなく、監督の作風には、どこか女性的な(いい意味での)、たおやかさというか、やさしさがあるような気がする。ただ、やさしいだけでは留まらず、その結末には、人生の哀しさ、苦さがきちんと織り込まれてるのだけど・・・そんな監督の作風を反映してであろうか、ハリウッドリメイクでメガホンをとるのは、女性監督であるらしい。ロシュフォールの役は、ドナルド・サザーランドだそうだ。今年のカンヌマーケットで上映されたらしいが、米リメイク版も見てみたい。ラリーさんが、実際、どんな風合いでフィルムに納まっているのか、おおいに興味がある。

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