2016年8月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

« イケナイ妄想~為義とーちゃんが出世できない理由ってもしかして | トップページ | 義賢と、六条大夫重俊についての覚書 »

2012年2月 9日 (木)

イケナイ妄想~義朝が若いころ無位無官で東下りしたのはもしかして

義朝がいつ東国に下向したのかはよくわからない。

私の調べ方が悪いだけかもしれないが、ウィキにも正確な年号が載っていないので
よくわかっていないのではないのかという気がする。
しかし、義朝という人の経歴をみると、ずいぶんと長く官位と無縁だったことに
驚かされる。ウィキによると31歳で下野守になるまで、官位官職についたことが
ないようだ。彼は享年38歳。そのことを考えると本当に遅い。

それはしょうがないんじゃない?お父さんが出世してなかったんでしょ?
と思うだろうか。

では、そのうだつの上がらないという為義と~ちゃんでさえ14歳で官職につき、
さらに、年の近い弟が13歳で東宮の官職を得ていることをどう思うだろうか?

為義と~ちゃんは、14歳で左衛門少尉となった、だが、
その後47歳で左衛門大尉になるものの、生涯、官位は低迷したままだった。

その父の朝廷での評価を思えば、長男・義朝が無位無官なのも頷ける。
ああ、お父さんがダメだったのね~お家に勢いがなかったのね~という風に。

ところが、その同じダメ父ダメ家のなかにあって、ほぼ同時期に
官職についている者がいるとなると、どうにも首を傾げてしまう。

それが為義の次男・義賢である。
彼の生年は不明だが、1126年の生まれではないかといわれている。
義朝は1123年生まれなので、年の差は3年ほど。
今年の大河では源氏は、平家に比べ富も人材も恵まれていないみたいな
イメージを大事にさせるためか、全然描かれてないけど、
第1話~第5話の頃、すでに生まれていて京都に暮らしていたはずである。

で、この次男、1139年、13歳で東宮帯刀先生に任じられている。
別に為義と~ちゃんが何か手柄をあげて、とかいうわけでもないらしい。

この頃、義朝がどうしていたか、すでに東国に行ってたのかわからない。
ただ、とくに父親に手柄があったわけでもないのに、弟だけこの扱いで、
兄が官職についてないというのがよくわからない。

じゃあ母親の実家が朝廷とコネがあるとかで、その関係で弟が?と思って母親をみると、

兄:義朝の母→白河院近臣、淡路守、藤原忠清の娘
弟:義賢の母→六条大夫重俊の娘

とあるだけで、どうもよくわからない。
これだけでは、両者の母親の実家が、各々どの程度の勢力があったのか、
あるいは当時の京でどんなコネクションをもっていたのか、さっぱりわからない。

ちなみに、義賢の同母弟に義広というのがいるが、兄と同じく東宮帯刀先生となっている。
二人の息子がそれぞれ官職についていることから考えると、義朝と義賢のちがいは
やはり母親の実家の勢力の差なのだろうか。
だが「六条大夫重俊」なる人物がどういうものなのか分からない私には想像もつかない。

なんとなく息子の処遇から考えると、忠清<重俊である。
しかし、悪源太義平の未詳の生母ならいざしらず、
「白河院の近臣・淡路守」とまでわかっている人物が祖父で、
その孫が年頃になり朝廷で官位官職を賜らないということがありうるのだろうか。
どうも、そこのところが不思議でしょうがない。

さて、義賢であるが、当人の事績よりも、次の二つのエピソードで有名である。
1)木曽義仲の父
2)藤原頼長男色の相手

男色で有名な藤原頼長の日記「台記」
このなかで数多のお相手の一人として義賢の名前が記されている。
当時29歳の頼長を、おそらく22歳ほどの義賢が組み敷いて、犯したそうで、
おもにタチだった頼長はこれが初めてのウケではなかったそうであるが、
「よかった。こういうことは初めてだ」と書き記している・・・(^^;
相当の経験者であろう頼長にそう思わせるとは、義賢もかなりのテクニシャン

というわけで、義賢という人物、官職や、男色のことから考えて、
武人というよりは、非常に公家的な素養をもった人物という印象がある。

関東に下向して荒事で名を成した兄・義朝とはずいぶんと違っていそうだ。

もしかしたら、義朝とは、その息子・悪源太義平のごとき人物だったのだろうか
いや、悪といわれてるわけじゃないから、さほどではないのだろうけど、

そして、もしかしたら、もしかして
男色なんぞ気色が悪いと思っていたとか・・・?

いつの世にもマイノリティーというものはいる。
もし義朝が、当時でいえばセクシャルマイノリティーで
男色にどうしても首肯できなかったとしたら、

そして有力者からの「どうだ、やらないか」の誘いをはねのけていたとしたら

母親の実家にコネがあろうがなかろうが、当時の都で出世はありえないのでは
なかろうか。

それと男色は当時の日本全体で盛んだったのだろうか?
これは、あくまで仮定の話だけど、もし当時の京の貴族社会だけのもので
東国の武士たちの間では行われていなかったとしたら?
義朝は、男色を嫌って、その習いのない別天地・東国で
伸び伸びと武士ライフを送ったという可能性はないだろうか?

まぁ、もし実際そんなことがあったなら、誰か貴族の日記にでも
「義朝ってやつは子供のころ、やんごとなきひとの誘いを断ったバカもので
その嗜みを嫌い、東国にわざわざ出向いた物好きだ」
とかエピソードが残っていそうなもんだけど、ないところを見るとないかな(^^;

それとも単純に、彼の母方の祖父が白河院に近すぎたか何かで
鳥羽院の代になって嫌われたか・・・
ドラマでは「忠盛は白河院に近すぎて鳥羽院に嫌われるだろう」なんて
為義と~ちゃんが語ってたけど、嫌われたのは実は源氏のほうだったなんて
ことはないよな(^^;

« イケナイ妄想~為義とーちゃんが出世できない理由ってもしかして | トップページ | 義賢と、六条大夫重俊についての覚書 »