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2013年1月23日 (水)

「Ergo Proxy」をようやく見る

なるほど、こういう話であったか。

*  *  *

Ergo Proxy」は2006年にWOWOWで放映されたアニメであった。
当時、放送直前にこの作品のことを知って、非常に楽しみにしていたのだが、実物をいざ視聴し始めて、ちょっと、事前の期待と、実際の作品との落差がはなはだしくなって、興味を失って見なくなってしまったのだった。録画はしていたはずなのだが、そのDVDもどこへやってしまったか・・・とにかく話全部を見ていなかったのだ。

そんな「Ergo Proxy」であるが、Youtubeで、たまたまOPをみてしまったが運のつき。

とにかく話の続きが気になって、堪らなくなり、仕方なくDVDセットの1と2をAmazon買い・・・

何のために毎週録画していたのか分からないw まぁ、今後は録画したDVDの管理をしっかりやるとしてw

ようやく、話を頭から終いまで見ることができた。

そうか、こういう話であったのかと。

正直いって、どこか不満が残る。
作画よし、世界観よし、そこそこしっかりした作りなのに、それなのに、結局この話を見ていて、興奮できなかったからである。「え~wそんなの当然じゃね~~?そういう話じゃないじゃん!」というなかれ。そもそも、こういう話は私の好みなのである。こういう話、すなわち、終末したあとの世界だの、ディストピアだの、都市だの、神だの、神と人だの、といったお話。どんな陰陰滅滅なお話しであったとしても、ゾワッというか、ゾクっというか、見ていて血の気がひくというか、逆に血が逆流しそうなくらい興奮させられることがあるものなのだ。それはランドスケープであったり、登場するキャラクターのちょっとした表情であったり、何気ないセリフの一言であったり、作画でも声優の演技でもなく、ちょっとした《間》であることもある。それが何かは、その時々、その作品ごとに異なり、自分でも「コレだ!」と事前に予想することはできない。だが、残念ながら「Ergo Proxy」でソレを見出すことができなかったというだけである。

(タイプは全然違うけど、あの「キリング」にはソレがあった。物凄く絶望的で陰陰滅滅であっても、途轍もなく血沸き肉踊った)

であればこそ、本放送のとき、視聴を途中離脱してしまったわけだし、そして、今回の再視聴でも見出すことができなかった。今回、わたしが最後まで放り出さずに最後まで通してみることが出来たのは、やはり身銭を切ってDVDソフトを買ったからかw あ・いや・そのw ま・まぁ、最後までストーリーが確保してあったからであろうと思う・・・

おのれを興奮させる何かを見出すことはできなかった。しかし、それでは、この作品を低く評価するかといえば、それは違う。よく、これだけの話を構築し、テレビコンテンツとしてきちんと放映期間内に物語りえたと思う。そのために、些か実験的な手法すらもとりつつ、それが極めて効果的で、作品に活かされている。その手際は素晴らしいといわざるを得ない。

この話って、こういう話なのか・・・そう、うっすらと片鱗が見えてきたのは、第8話。
どこのお笑いコンビだったか「退屈な神々の遊び」とかなんとかいうネタがあったのを思い出した。圧倒的なまでの存在でありながら、おのれが分かっていないということなら「serial experiments lain」のようでもある。人間を超えた存在が跋扈するディストピアで滅びの物語というなら「Wolf's Rain」にも通じる部分がある。

人がいなくなったあと、オートレイブが黙々と作業をこなしているドームなどみると、「TEXHNOLYZE」で暴力的な人間が排除されたあとの、やたら整然としていたが生の気配のなかった地上の都市を思い起こす。あれもまた、とびきりのディストピアものであったっけなあ・・・

ヴィンセントの在り方や、被創造物の在り方など、実存を巡っての物語でもあったなと思う。

最後まで通して見た今は「サイボーグ009天使篇」のことも思い出す。あるいは、エホバを裏切り、悪魔に付いた堕天使ルシファーのことなども。最終回、ラストシーンでのヴィンセントのセリフは、かつてルシファーが神を裏切った真相ってこういうことだったのかもなあ・・・などと思わせるものがあった。

この世には「やってみなければわからない」という言葉がある。九分九厘、結果の分かっている物事も、関係者の踏ん張りや気合で、土壇場で逆転できるかもしれないという、楽観主義そのもののような言葉である。しかし、本作「Ergo Proxy」には、この言葉が入る余地がない。

物語そのもの、人間から異形のプラクシーたちにいたる全ての登場人物も、結局、世界は予定調和、《創造主》の描いた計画のうちに、九分九厘どころか100%結果は分かっていると認識し、その認識は揺らぐことがない。あのプラクシーワンでさえ、いずれは帰還する《創造主》(先史人類)の前に、いま地上にある全ては屈するしかないと認識していたようだ(最終回で、彼がリルに投げかけた「勝者にはなれない」という言葉を私はそのように解釈したのだが)。

恐らく、その根本に横たわる諦念が、私がこの物語に興奮できなかった遠因ではないかと思っているのだけど、しかし、最後にあえていいたいのだ。「やってみなければわからない」と。

この過酷な23話を生き残った、ヴィンセントやリルたちにいいたい。「物事はやってみなければわからない」と。この先、降臨するのであろう《創造主》たちと絶望的な戦いを繰り広げるのであろう彼らに贈る、これは私からのエールである。

私はこの物語に「2」を望まない。それはあまりに蛇足な感じがするし、むしろ遠く離れた現実から、物語の中で展開するであろうヴィンセントやリルたちの戦いと、その行く末を、祈りたい。

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