何かが過剰だ
AKB48峯岸が、お泊り愛をすっぱぬかれ、坊主頭になって謝罪した(動画にて)という話が、実に反響を呼んでいる。
日本国内だけでなく、海外でも報道されているそうで、お隣の中国ではネットで「日本の芸能界はおかしい」というようなスレッドが立ったそうだ。いや、日本の、というより、AKB48というモノがおかしいのではないかと思うのだが・・・それはさておき、
詫びを入れる、謝罪する手法として、頭を丸める、というのはある。しかし、それは主に男の作法であった。女が詫びを入れるために頭を丸めるというのは、聞いたことがない。私が不勉強なだけなのかもしれないが、これだけ世間で話題になっていて、「いや、過去に例があったことだ」というような声を余り聞かないところをみると、恐らく、滅多にないことじゃないのだろうか。
滅多にないというより、実際、女が頭を丸めるのと、男が丸めるのとでは、こうも雰囲気が違うものだろうか。
お若い方はご存じないだろうが、その昔、テレ朝に「ニュースステーション」という報道番組があった。現在の報道ステーションの前にやっていた奴だ。報道だけでなく、番組内で結構バラエティに近いこともやっていた。メインキャスターの久米宏が、野球解説者とともにプロ野球の順位を予想し、見事はずして、シーズン終わりに頭を丸めたということがあったが、あのときのカラッとした笑い、「あ~あw久米の野郎、はずしちまったよ、しょ~もないねえ」といいつつも、見ているこちらも、あっけらかんと笑っていたのと、今回とでは、余りに雰囲気が違う。
そりゃそうだろう、侘びなんだから・・・と思うかもしれないが、笑ったんなら侘びにならないじゃん、というかもしれないが、
しかし、今回の峯岸の坊主頭を見て「洒落にならんよコレ・・・」と感じたわけでしょう?
あの彼女の姿にまとわりつく、尋常ならざる雰囲気。
それが、そのまま、この反響であり、「ちょっとなんか違うんじゃない?」とお茶の間も世間も疑念を感じちゃってるわけでしょう?
そもそも、女が頭を丸めるときってのは、剃髪、つまり、仏門に入るとき、それに限定されてるんじゃないのだろうか。
仏門に入る、出家する、それは、イコール、俗世間から離脱することであった。
宗教者、修行者として、涅槃や悟りの境地を目指して、この世にあって、別世界に身を置こうとすること、なのではなかったかと。
しかし、峯岸が今回とった剃髪は、そうではなく、自らを罰するために行う行為であり、AKB48という場に留まるための方策だった。
するてぇと、AKB48というのが、この世ではなく、涅槃なのか? いやいや、他の子達は髪の毛あるぞ・・・だから、AKB48を涅槃に見立てて、AKB48側へ出家するというのは成り立たないよなあ???
剃髪し、出家する女たちは、別に、自分たちを罰したくてやってたわけじゃないだろう。
古典の話で恐縮だが、「源氏物語」では、登場する女性たちが、出家を願うことが多々ある。光源氏の最愛の女性・紫の上は、晩年、出家を思うが、夫・光源氏はがんとして許さなかった。第3部「宇治十帖」では、薫と匂宮の愛に悩み苦しんだ浮舟は、最後に出家を果たした。これはあくまで私の感想だが、この物語における出家というのは、女が自由になるための、最後の手段なのである。この世の懊悩から脱出し、自由の境地になるための。
それは逃避ではない、逃走なのである。
そして、それは、俗世間に身を置く側からすると、きわめて窮屈で、別の意味で不自由のような気がする(今度は今度で、仏教的ルールに従わなければならないわけであって)。しかし、出家する女の側からすると、それでもいいぐらい、俗世間側において不自由であったということなのだ。束縛、抑制、抑圧・・・
そして、剃髪(平安時代は、髪を切るだけだったろうけど)は、その脱出者のあかし。それをしてしまった者に、俗世間の手は及ばない。それが出家のルールであった(まぁ、そのうち、ぐずぐずになってしまったけど)
古来、髪は女の命といった。そして、出家は、その髪を切る・・・そう、出家とは、仮想的な死なのである。そして実社会からリタイアして、出家者は、新しい生をいきるのである。
私は、女が頭を丸めるというと、即、出家するということをイメージする。そして、今書いたようなことを思い浮かべる。そのことを照らし合わせて、今回の峯岸のことはどうだろう。とても彼女が自由になったようにはみえない。とにかく、いまもまだ、何かにがんじがらめになっている、そんな風に見えて仕方がない。
仏教でいうところの、煩悩。それが俗世間で活きていく我々の苦しみの源のひとつなわけだけど、峯岸は、頭を丸めてなお煩悩に苦しんでいるようにみえる。彼女の煩悩はなんだろうか・・・私にはAKB48そのものが煩悩に思えて仕方がない。AKB48のメンバーであるワタシでありつづけなくてはならない・・・そのテーゼ。
(そのテーゼがそんなに重大ならなんで恋愛なんかするの、と思うのだが、それはおいといてw)そのテーゼから自由になれない限り、彼女の懊悩は、恋愛しようがしまいがかわらないだろう。
さて、話はかわるが、お泊り愛だかなんだかしらないが、恋愛はひとりではできない。
今回の騒動が恋愛スキャンダルであるのなら、相手の男がいるわけだ。
女は、かくも痛々しく自らを罰し曝した。では男のほうはどうした?
所属事務所が次のようなコメントを発表した。
「プライベートのことは本人に任せております。本人からは仲の良い友人と報告を受けております」
う~ん・・・
この落差。
例えば私は、女が頭を丸めて詫びを入れたんだから、男も同等にやれ!などというつもりはない。
ただ、この恋愛禁止を掟として謳っているAKB48のメンバーと浮名を流して、その女の子たちをあれこれ難しい立場にしているもう一方の当事者である男たちのありようについて、なんだかなあ、という思いは、毎度毎度感じてはいるのである。
いや、繰り返していうが、女と同じくらいに男も制裁を受けろ!というつもりはない。
ただ、なんというかなあ、相手の女のコの立場を思いやれないような男はイヤだねとも思うし、女のほうでは男を見る目がないんじゃないかとも思う。
まぁ、しかし、峯岸のほうでも、頭を丸めてまで貫きたかったものは、恐らく相手の男への愛ではなく、自らが属しているAKB48への愛(てか忠誠?)であったろうから、いいのだろうかなあ。
しかし、どうせ身を焦がすのなら、発覚したときにはその愛に殉じて社会的抹殺も辞さない!ぐらいの、熱い恋にしたほうがいい。
« 「クリムゾン・リバー2 黙示録の天使たち」を見た | トップページ | すわ日本茶の危機なんて騒ぐ気はないけれど »